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NPO法人地域医療を育てる会のブログです。
育てる会のメンバーが市民の目で医療について感じたことを書きます。
皆さんのご意見をお待ちしています。

 

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投稿者:管理人
tisshikiさん
コメントをありがとうございます。
先日、早稲田大学の学園祭で「誰が医療を守るのか」というシンポジウムがあり、お話をさせていただきましたが、
まさにこれからの医療を語るときには「死」を避けては通れないと思っています。

今は「医療費が少ない、医療スタッフが足りない」という話が喧伝されていますが、
では「どこまで行ったら足りているというのか」という議論はあまり聞かれません。

私たち一人ひとりが
最後まで濃厚な医療を受けて、ひたすら延命を願うのか
最後は緩和的な医療を受けるだけで(これだって、そうした医療を受けることができない世界の人々からすればものすごい贅沢ですよね)よしとするのか
そういった議論がされるべきだと思っていますし、

これは国が、政治が
決めることではなく
私たち一人ひとりが自分自身と、そして自分の大切な人たちと語り合う中で
決めていかなくてはならないことだと思います。

今は医学が発達して、それまでは助からなかったような人たちも生きながらえるようになりました。
その中には、後遺症や何らかの障碍と共にその後の人生を生きる人たちもいます。
そしてどの人たちにも、最後には等しくこの世を去るときが訪れるわけですから、
そこまでのときをどのように生きていくのかは大切なテーマだと思っています。
投稿者:tisshiki
(承前)
日本人の平均寿命が世界一というのは、死を哲学的に突き詰めて考えることを怠り、徒に生を引き伸ばしてきたからではないでしょうか?ひとは自分自身が死んだことを認識できません。従って、自己の死というものは決して実現することはなく、死は常に他者によって全うされるしかないのではないでしょうか?本人のリビングウィルを尊重せずに延命措置の継続を希望する家族は、他者の死を全うする覚悟が出来ていないのです。

「死ぬ時節には死ぬがよく候」と良寛和尚は書いていますが、彼は恐らく「延命措置」は望まなかったでしょう。「死」を科学的に定義することは可能かもしれませんが、「死ぬ時節」がいつかは科学は答えてくれないでしょう。それは自分で決めるしかなく、他者はそれを尊重するしかないのではないでしょうか。

  願はくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

西行法師は死ぬ10年以上も前にこの有名な歌を読んだそうです。
投稿者:tisshiki
「現代人は、鎌倉時代のなま女房ほどにも、無常ということが分かっていない。常なるものを見失ったからである。」と小林秀雄が書いたのは戦前のことです。その「なま女房(若い宮廷女官)」は「生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世をたすけ給へ。」と言っていますので、現代人が失ったものとは「後世」への想い、死に対する覚悟だということでしょう。小松秀樹医師が『医療の限界』でも触れていましたが、キリスト教文化圏におけるmemento mori(死を想え)と同じです。生を死との対比で考える死生観を日本人は失ったとも小松医師は書いています。

日本人が無常観や死生観を忘れたのは、戦後の科学万能主義の所為でしょう。私は鉄腕アトム世代なので、科学がバラ色の未来を約束してくれると信じて育ちました。祖母がまだ生きていた頃には私も良く耳にした「お天道様」や「閻魔様」も非科学的で荒唐無稽だとして次第に聞かなくなりました(寅さんは最後まで使っていましたが...)。こうして日本人はGHQに天皇を葬られ、科学信仰と交換にアニミズム的な超越的存在も葬り、死はいつか科学によって克服されるものだと信じて死までも葬り去ろうとしたのではないでしょうか?

アフリカには今でも平均寿命が40歳そこそこという国がいくつもあります。そこで暮らしている人々は、恐らく何とかして「生きたい、生きたい。」と思っているのでしょう。キリスト教文化圏の人々は、常に死を想っているとすれば、「死にたくない、死にたくない。」と思っているのかもしれません。そして死を忘れた私たち日本人は医療にすがって何とか「治したい、治したい。」と思っているのではないでしょうか?

医学も断片化し、専門化が進むと、医師は患者を臓器としてしか見られなくなくなるのでしょう。臓器に疾患があれば全力で治そうと努力します。マックス・ウェーバーは「職業としての学問」の中で、「科学はその行為の究極的、本来的な意味について何も答えない。」と書いているそうですが、科学の中でも唯一人間の生命を対象とする医学においても残念ながら例外ではありません。
(続く)
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