業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その480 カメラの話し続き編

2012/3/23 | 投稿者: hal

私は若い頃からメカ好き新しもの好きだったので、カメラにも熱中した一時期があった。 小学生時代のスタート35から始まって、中学生時代にはミノルタコード、その後成人してからはキャノンF1を愛用していた。

キャノンは戦後まもなくの距離計式カメラ時代には、ニコンとならぶ日本のトップブランドだったが、一眼レフ時代への対応が遅れ、ニコンに水を空けられた。 

ニコンFは発売当初から広角から望遠まで一式揃えてのスタートだったが、キャノンは広角レンズは距離計式の方が使いやすく高性能という理由から(それ自体は真実)、一眼レフシステムは望遠主体というシステムだった。

当然ユーザー側からみれば一式揃っている方が便利なので、ニコンへとお客さんは流れる。 かくして昭和30年代の終わり頃には、一眼レフはニコンという評価が定着してしまった。

この評価を覆すためにキャノンは大変な努力をしなければならなかった。 社運を賭けて開発したのがキャノンF1であり、AE-1である。 

AE-1は自動露出で5万円以下という、当時としては非常に安い価格設定と性能の優秀さで大ヒットした。 しかしAE-1はあくまで廉価機であり、フラグシップであるプロ用一眼レフカメラはニコンFがトップのままであった。

ここで当時の社長は大英断をした。 各新聞社には新フラグシップF1と各種交換レンズ群一式を無料で配布、メンテも全て無料という手を打ったのだ。 この話しを聞いたのは、銀座のキャノンサービスセンターのメンテ掛りのおじさんからだったと思う。 毎週月曜には各新聞社を回り、綿密なメンテと修理をしたそうだ。

更には何度も規格を変えて顰蹙を買ったレンズマウントを、「これからはこのマウントから一切変更しません」と宣言してFDマウントを発表した。 このFDマウントは当時としては世界最大級の大口径マウントで、F1.0クラスの大光量レンズの装着も可能であり、シヤッターと絞りの両優先撮影にも対応していた。「一切変更なし」と迄はいかなかったが、AF時代に入るまではトップクラスの優秀なマウントだった。


これらの努力とキャノンカメラ自体の優秀性もあり、頑迷な各新聞社のカメラマンたちも次第にキャノンF1とレンズの優秀さに気がつき始めた。 そして時は流れいつしかカメラはキャノンという時代が来たのだ。

私もキャノンF1を長年愛用したが、当時としてもこれだけバランスの良い優秀なカメラはまずなかったのではないか。 

なによりもその頑丈さが並大抵ではない。 ニコンFは喧嘩の凶器になるという位頑丈さが売りだったが、F1はその上をゆく丈夫さで、ペンタの部分がべこべこになり、フィルム圧板がすりへって交換しても、まだまだ充分使用に耐えるという凄い製品だった。 さすがに社運を賭けた製品だけのことはある。

ファインダーの見え具合も明るくシャープで、当時としては超一級だった。

しかもサービスセンターの応対が非常に親切で、前記のベテランメンテの方には、「プロのレンズの拭き方をお教えしましょう」ということで、文字通り手を取ってレンズを傷つけない拭き方を詳細に教えて貰った。 

又数台のカメラの露出計のレベルを全て同一に揃えて貰うとか、ファインダーのスクリーンを特別なもの(レーザーマット)に張り替えて貰うとか、ニコンでは到底考えられないようなサービスもしてくれた。

なにせ当時のニコンのサービスセンターは、ガングロが流行る前からガングロのバカねーちゃんが、「当社のカメラは全て同じ露出レベルなんだよーん 同一に設定なんかできないよーん 味噌汁的洗顔 再来一昨日」という不親切きわまりない応対だったのだ。

(翻訳・味噌汁で顔洗っておとといおいで)

そんなわけだから、ニコン嫌いキャノンびいきになるのは当然だろう。

注 以上は昭和40年代頃のお話しで、現在とは大分事情が異なる。


その後写真雑誌や富士フイルムその他のコンテストに精を出すようになり、年度賞とかいうものを貰ったりした。 当時の写真雑誌の月例コンテストに入選すると、雑誌からだけではなく、使用したカメラ会社やフィルム会社からも賞金やフィルムが貰えたのだ。 こちらの方が雑誌社からの賞金より多額になる場合も多く、これらを合わせると月々数万程度は稼いでいたのではないか。

そしてついには写真の友人と組んで、プロまがいの写真館まで始めてしまった。 勿論このインチキ写真館は数ヵ月で閉館となった。(笑)
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