例の「君の心に刻んだ名前(刻在你心底的名字)」(まだ続く)を観ながら、アハンかバーディーか、どちらがよりアタシに近いか、なんてことを考えていました。
「変人」扱いというところや「家」規範にしばられているという意味ではバーディーに近いし、一方で「想い」に忠実というか、直情的なところはアハンに似てるし、でもやっぱりどちらかというとアタシはアハンに近いのかな(顔やスタイルは除く)。
この映画の中ではバーディーの心情についてはほとんど説明がなくて、だからこそバーディーが何を考えているのかが、気になって仕方がない。
そしてバーディーのことを考えていて、記憶の底から蘇ってきたのが二番目の初恋のこと。
最初の初恋のことは今までも何度か書いているし、業界の友人には実際に話したこともあるから、耳タコ・眼タコになっている方もいらっしゃるとは思うけれど、二度目の初恋については、あまり話したことがなかったかも。
ってこの書き方、てか定義、橋本治先生の「恋愛論」へのオマージュなのだけれど、お分かりになるかしら(笑)。
高2で恋の喜びを覚え、高3で痛みを覚え(ああメロドラマw)、受験(と相手の不合格)で会う機会がなくなり…、というのはほんと映画をなぞるような感じなのだけれども、アタシがアハンほど純でないのは、大学に入って新しい環境や人間関係に現を抜かしてしまったところで。
「木綿のハンカチーフ」状態というか、人間なんてそんなものかもしれないけれど、受験で会って同じクラスになったクラスメートがちょっと気になったりして、アタシもしょせん「オトコ」だわね(爆)。
もちろんそれとは別の次元で元カレを忘れることはできなかったけれど、彼が浪人している以上、おいそれとこちらから連絡することははばかられたし(勉強の邪魔をしちゃいけないでしょ)、それこそ受験の前は映画と同様「気持ち悪いと思っているのか?」とよく詰め寄っていたし(やめとけ)。
それでも彼が一浪して同じ大学に入ってきたら再び会う機会にも恵まれただろうけど、彼は二回目も失敗して別の大学へ。
親友と恋人を同時に失うというのは今思い出してもツラかったわね。
そして大学の2回生のとき。
やけにパーソナルスペースが狭いというか、やたらとボディタッチしてくる後輩がウチのサークルに入ってきてさ。
そいつはアタシと話している間、ずっとアタシの手を握ってきていたのよね。
それでアタシはなんか勘違いしちゃって。
バーディーがアハンの寝床に夜な夜なやってきては添い寝しているシーンがカットシーンとしてYoutubeなどに上がっているけれど、そりゃアハンも恋に落ちるわ、と思うの。
「なんでお前は自分のベッドで寝ないんだ?」と実際問うてもいるけれど。
どちらがモーション(死語)を掛けてきたのかというのは恋愛における一大事ではあるわよね。
その二番目の初恋の相手は、そのうちウチのサークルでも指折りの美人さんと付き合うようになって、自然とアタシとは疎遠になってしまったけれど、橋本治先生じゃないけれども、アタシの初恋は1番目と2番目を合わせて、ようやく完結するようにも思うのでした(反対に言うと、それ以降好きになった人も何人かはいるけれども、心にengraveされる、というほどのものではないように思うのよね。バリトン君でさえも)。
そうそう。
この映画の英語のタイトルは”Your Name Engraved Herein”なわけだけれども、この文言、映画の中で神父のお墓に刻まれている。
キリスト教ではよくある墓標なのかしら?
と思うと、この映画は社会の不寛容さとそれを内在化してしまったが故のフォビアによって成就しなかったアタシ達のすべての恋への鎮魂歌という意味もあるのかな。
元UC-GALOPのjunchan.の映画評を読んで、そんなことも思ったのでした。

0