今日の朝日新聞に、東日本大震災支援プロジェクトの取り組みが掲載されていました。
ウェブにはアップされていなかったので(涙)
記事だけ打ち込みますね。
疲弊医師支える医師
「羽田午後7時発、山形便に乗れますか?」
順天堂大医学部(東京都文京区)の准教授、内藤俊夫医師(41)が職場で電話を受けたのは、震災6日後の17日午後4時。
時計を見た。あと3時間。
いつものように、白衣の下はスーツ姿だった。
これでは被災地には行けない。
同僚にせかされ、都心の百貨店。
節電で閉店した店に事情を話し、防寒着から運動靴、旅行かばんまで一式を購入し、羽田空港に向かった。
内藤医師は
「自分の専門に限らず、どんな病気も診る」総合医を養成する日本プライマリ・ケア連合学会の理事でもある。
11日の大震災の直後から、学会の有志50人と被災地入りを希望した。
だが、まだ準備が進まないと聞いていた。
これほど早くとは。
18日には、前線基地のある岩手県藤沢町の国保藤沢町民病院に立っていた。
離島を飛び出して
前線基地を設けたのは、島根・隠岐諸島の診療所を預かる白石吉彦医師(44)。
大震災に矢も盾もたまらず、発生2日後の朝、大量の栄養補助食品と水6リットル、手回し発電ラジオを持って東京へ。
そこで、僻地や離島に卒業生を送る自治医科大学の先輩医師と合流。
緊急車両で一路、北上した。
当分散髪できないと、頭は丸刈りにして現地入りした。
すぐ気づいたのは、津波を伴った震災の特異性だ。
普通の震災では患者に、救急医療の優先度を4段階の色で示す「トリアージ」判定を行う。
だが、津波では救急不能の「黒」か、救急不要の「緑」だけ。
中間色はない。
生か死か。
津波は、非常にも生死をさまよう余地すら断ち切った。
離島の医師は「どんな病気でも診る」が身上。
その点でプライマリ・ケア連合学会とは共通点があった。
藤沢町民病院を拠点に自然と、同学会と合同の医療支援プロジェクトが始まった。
目標は、「被災した地元医師を長期に支えること」。
まずは津波で携帯電話を失った医師たちに、通じやすい機種の20台を無償で提供した。
連絡を取り合って、必要な物資や薬品、避難所での医療状況などの情報を集めた。
次は、疲弊した避難所の医師に休んでもらうことだ。
そこに内藤医師が現れた。
当直を肩代わり
ガソリンスタンドには、給油を求めて長蛇の車列ができる。
保有するただ1台の緊急車両では、避難所の巡回も満足にできない。
取材のため緊急車両で藤沢町に立ち寄った記者の私も、プロジェクトに巻き込まれた。
2日間、医師や看護師を宮城県気仙沼市の避難所に送り迎えし、乏しい物資を運んだ。
後背地の岩手県一関市のコンビニでパンを4個買った。
「1人2個まで」。
いったんは断られた。
「被災地のお医者さんに届けたい」と言うと、
後ろに並ぶ女性が続けた。
「私の分、この人にあげて」
藤沢町で内藤医師と、避難所に届けるりんご3箱を買った。
果樹園主が「これは私から」と言って、もう2箱を積み上げてくれた。
気仙沼市で最大規模の避難所(約1800人)では、二晩にわたり病院に閉じ込められ、救出された地元医師が不眠不休の診療を続けた。
「このままでは倒れる」。
内藤医師が代わって夜間当直に入った。
看護師残り奮闘
この避難所を守る看護師の多くも、自ら家を失った。
救援物資を運ぶために現地入りした千葉県松戸市の看護師、安西順子さんはいたたまれず、気仙沼に残った。
避難所には、夫が遺体で見つかり、ショックでお乳が出なくなったお母さんや、お年寄りら介護が必要な人が、20人はいる。
毎日、刻々、ニーズが変わり、即決が必要だ。
安西さんの目標も「被災看護師」を支えることだ。
(2011年3月25日 朝日新聞より)

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