本日6時半、起床。
7時、出社。建設部O君が代休出社して来た。ブログを更新。
9時過ぎ、帰宅して朝食。“あっぱれー”“だけど食堂”を観た。
10時、佐野市発注入札工事を検討。
12時半、昼食。
13時半、栃本小で開催された「栃本ぎんなん大運動会」に参加。全児童数が120名ほどの小さな学校だからこそ、毎年栃本地域住民もともに参加しての運動会。

4〜6年生男女混合騎馬戦↑。

よさこい踊り↑。小生は子どもが卒業してからは久しく綱引きだけ出場している。秋晴れの運動会日和で子どもたちにもよい想い出ができてよかったね。
15時、綱引きは見事3位になり、出番終了後に帰宅。久し振りに唐沢山登山に向かった。旧道の遊歩道を登りながら、土砂崩れの災害発生現場↓を確認。今回はこの現調が目的の一つ。

大したことはなかった。まあ上杉謙信でさえも、容易く手中にすることがきなかった天下の急峻な要害に、無理やり道をこさえているのだから、到る所で崖崩れが発生するのは当たり前田のクラッカー。
17時、唐沢山神社・避来矢山霊廟・八大龍神様をお詣りした後、久し振りにジョギングで下山して帰社。
18時、O君の帰社を迎えてから帰宅して夕食。
18時半過ぎ、同級生4人組からお誘いを受けて、『割烹 紅楽』さんへ行った。

この↑秋刀魚の焼き方は、なかなか家庭ではできない。お調子者の小生は、同級生4人に魚の食べ方を指南するために、頭から尻尾まで全部食べてみせた。プロの技だからこそ全部美味しくいただけるのである。
21時前、徒歩で帰宅。
22時、就寝。
★今日の言葉 ≪ 人は高きから低きへ流される存在? ≫
あるひとが言いました。
水は高いところから低いところに流れるもので、
ひともまたこれと同様、
放っておけば善きから悪しきに流れるものだと。
しかし、金次郎は
「それはまた、現実とはほど遠い観念論だ!」
と反論します。
そして、
「生きている水は上へと向かっているのではないでしょうか?
なんならいまここで、貴方の頭をたたき割ってみましょうか?
きっと血が上へと吹き出るはずでしょう」
と言い大笑いをしたのです。
これも、わたしのお気に入りの話です。
一般に、水が高きから低きに流れるように、
人間もまた放っておくと高きから低きに流れやすいから
気をつけるように……といった教訓めいた話はよく聞きます。
しかし金次郎は、そうした世界観を持っていないことを
ここで宣言しています。
たしかに、雨は天から地へと降下してきます。
そして地に落ちた雨は地中へと、さらに降下します。
しかし、たとえば樹木や人がそこに関与するならば、
水は「上へ」という方向性をおびはじめます。
地中の水を根が吸い、地上の幹や枝や葉へ。
地下深く井戸を掘り、地上の生活へ。
そして身体に取り込まれ、水となり血となり、
足の先や頭の先へ。
金次郎は、下ったものがふたたび上ろうとするこの方向にこそ、
「生命」や「暮らし」をみていたのではないか……。
「上へ」という力を、生命があり、人間がいる証だと
感じていたのではないか……。
そう思うのです。
ふざけているお話のようでもありますが、
わたしはこうしたところにこそ、
金次郎の人間観、人間へのつよいつよい信頼の思いを感じます。
放っておくと高きから低きに流れるのが人間だとする考え方は、
基本的な人間への信頼を欠いた発想です。
けれど、金次郎は違いました。
彼は信じていたのでしょう。
人間が、低きから高きへと向かって
生きている存在であることを。
人は、誰もがみな幸福になりたいと精一杯、
必死で生きていることを。
ここで彼が軽やかに、明るく笑うのもまた、
きっとそんな人間の善性への信頼や
他者へのたしかな希望を物語っているのだろうと思うのです。
『二宮金次郎の幸福論』(中桐万里子・著)

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