本日5時起床。
6時前、唐沢山神社へ参詣。
もう一度だけ・・・・。
14時、佐野市郷土博物館へ行って、広島大学大学院教授 三浦正幸氏による記念講演会「近世城郭と唐沢山城・佐野城の構造について」を聴講した。
三浦先生は、今年初めて江戸城の天守閣をCG映像化した、城郭研究では日本を代表する方で、会場の福祉会館大ホールには入り切れないほどの多くの方が来られた。
城郭研究の第一人者である三浦先生のお話によれば、唐沢山城は私たち地元の者が、普段何気なく見ている認識とは異なり、日本の近世城郭としては、史上まれにみる一級品の貴重な遺構であるそうだ。
代表的な内容を下記に述べる。あらためて唐沢山城の偉容さを知った。石垣についての細かな説明もあってたいへん勉強になった。この郷土の遺産を大切にしなければならない。その頃の雄姿を
もう一度だけ見てみたい・・・。
・本丸から山麓の家臣団の武家屋敷までみると、下野一国分の大大名級の国主が所有していてもおかしくないほどの、
日本国中で最大級の城地面積を誇っている。
・佐野藩は最大で3万9千石だったが、10万石以上の藩ではないとこの規模の城郭は普請できないはずである。その点でも異例中の異例である。
・本丸付近の高石垣は、
関東で現存する最も古い石垣で、且つ豊臣系の技術で築造された高石垣としては、関東で初めての近世城郭である。
・この高石垣は、関東で
古さで一番、
巨大さで二番目の石垣(一番は江戸城)である。
・三階建ての天守台があった可能性がある。
・関ヶ原の合戦前後に、豊臣系の富田家から佐野家に入った佐野信吉の頃に、この高石垣を築造したものと思われる。
・徳川系が支配する関東地域の中に、最新鋭の極めて巨大な豊織系城郭が忽然と現出したことは、徳川氏には極めて脅威であったと思われる。
・徳川の世になってから、佐野城(春日岡城)へ移転されたが、近世豊臣(西日本)系の城から、石垣ではなく土塁を主体とし、唐沢山城より著しく本丸を広くした近世徳川(関東)系の城へと構造が変えられた。
17時半前、『割烹 紅楽』さんで「嶋ちゃんを偲ぶ会」に参加した。辛くてべろんべろんになり、家まで送ってもらった。
もう一度だけ、嶋ちゃんが亡くなる前の晩の肉声が聞けてよかった。
22時半、就寝。

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