皆さん、いかがお過ごしでしょうか?
皆さんが、元気にしておられることを願っ
ています。
天と地と、その中にある全てのものを造ら
れた神の恵みとあわれみによって、たとい、
私たちの、あちこち痛い体がさらに古びてき
ても、また、コロナで、私たちの毎日の生活
苦が増してきても……私達の心が、イエス様
のゴスペルの愛と希望で力づけられますよ
う、イエス様の下さる安らぎと喜びで励まさ
れますよう、天国での永遠の命の約束を待ち
望んで、日々イエス様に感謝して進めますよ
う、イエス様にお願いしています。イエス様、
どうか、私達の、それぞれの必要を満たして
ください。よろしくお願いします。ありがと
うございます。
『また、今日からやで!』 先日、夜遅くに、旅先から下松に帰宅。次
の朝、用事で町に行く農道のはしに、何とも
爽やかで、きれいな花。秋晴れのそよ風に揺
られながら、ニコニコ咲いている。この花、
初めて見た! 今まで、なんで気がつかんか
ったんだろう?と、考えていたら……そうか、
いつもの年なら、この時期、私は、ここには
いないんだよな。コロナで、私の旅の日程も
変わったんだ。そういえば、裏になったイチ
ジク、去年は食べんかったが、今年は、何個
も食べた。そうだよなぁ……それぞれ、神が
決めた時に、神が決めた場所で、神の業を、
やらせてもらってるんやなぁ〜。そのまんま
やねぇ。
その2日後、また、そこを通った。あんな
にきれいで、生き生きとしていた花のほとん
どが、しおれていた。私は……ダビデの歌を、
また、思い出していた。
「人の日は、草のよう。野の花のように
咲く。風がそこを通り過ぎると、それは、
もはやない。その場所すら、それを、覚え
てはいない。しかし、天地の造り主の恵み
は、とこしえから、とこしえまで、造り主
なる神を恐れる者の上にある。」
そして、俺の心が言った。「まだ、これか
らやで! この世におらせてもらう間は!
天国へ行くまでは、また、今日からやで!」
「私の心の変遷」続き 今回も、私の心が、どのように感じ、思い、
考え、変わっていったのか、出来るだけ思い
出して書きたいと願っています。これらのこ
とは、ずいぶん昔のことですが、私は 1978
年に、自分の心の変遷を1度書いたことがあ
って、それで、今でも、かなり詳しく覚えて
いるのだと思います。
「キリストは馬小屋で生まれて、十字架 にかかって死んだ」
いつ頃からだったでしょうか?多分、小学
校低学年の頃? その言葉が、私にとって、
どういう意味なのか 1 度も考えたことはあ
りませんでしたが、私はその言葉を知ってい
ました。「なぜだろう?」それを考えていた
ら、思い出したのです。そのことは、何年か
前、私のレターにも少し書きましたが……。
「キリストがあるよー!」
あれは、私が幼稚園児か小学 1 年生くら
いだったと思います。当時住んでいた熊毛町
高水の村でのこと。 時々、日が暮れた頃に、
「火の用心」の拍子木を叩いて、「キリストが
あるよー」と言いながら、年上の子供達が近
所を回ったのです。多分、私の親は、それが
何か知っていたのかもしれませんが、行きた
いと親に言うと、その「キリスト」とやらに、
私たちを行かせてくれました。それは、高水
駅の前にあるタバコ屋のアヤマさんの家で、
アメリカの宣教師がやっていた、子供会だっ
たのです。(ここでは、詳しくは書きませんが)
多分、私は、その言葉を、そこで聞いたんだ
と思います。その「キリスト」やらに、何回
くらい行ったか覚えていませんが、行った時
のことは、いくつか覚えています。
(話は、もとへもどります。)
「十字架につけろ!」
私は、マタイの福音書を読み進んで行きま
した。イエスが行なった奇跡や、癒しの奇
跡、また、イエスが人々に語ったことを読ん
でも、これといって心に残るものはありませ
んでした。多分、それらが、現実的でないの
で、やはり、おとぎ話という感じで、読んで
いたんだと思います。そして、その 27 章で、
群衆は、イエスを、「十字架につけろ!」と
叫び、イエスを十字架につけたと書いてある
ところを、自分で、初めて読んだのです。「キ
リストは馬小屋で生まれて、十字架にかかっ
て死んだ」というのは、ここに書いてあるん
や! 他のことは、深くは考えませんでした
が、イエス(キリスト)は十字架にかかって
死んだ、というのは少し考えていました。次
の章、28 章には、「イエスは、死んで3日し
て生き返った!」と書いてあるのですが、そ
の事も、心には残らず、ただ、十字架で死ん
だというのが、残っていたと思います。
「4 つの福音書」
福音書というのが何なのか、全く考えない
ままで読み進みましたが、いつ頃からか、福
音書(ゴスペル)というのは、Good News(良
い知らせ)だと知るようになりました。誰か
らか聞いたんですね。それは4つあるのです。
4人の人が、別々に、自分がイエスと一緒に
いて、イエスが行なった奇跡を見たり、イエ
スが話したことを聞いて、それを書き留めた
ものというのです。4つとも、それに書かれ
ていることは、だいたい同じような内容でし
たが、どの福音書も終わりの辺で、イエスが
十字架にかけられて殺されるのです。
「イエスは、人の罪の罰を代わりに受け る為に、十字架にかかって死んだ」
私は、福音書を読み終えて、その先の方も
読み進んでいったと思います。時が経つにつ
れて、同じ家に住んでいた若者達がイエスの
話をしているのを聞いたり、住人の誰かが怪
我をした時もそうでしたが、他の人のために、
何人かで一緒にイエスに祈ってるのを聞いた
りすることもありました。その家に住んでい
たほとんどの若者は、いわゆるヒッピーのよ
うで、私と比べて、かなり自堕落な生活をし
てるように見えました。しかし、彼らが集ま
って、他の人のために、イエスに祈ってる(お
願いしてる)のを見る時、私自身は、ちょっ
と変な気持がしましたが、でも、なんか、私
にはない、素直で優しいものを彼らに感じま
した。
そのような中で、私は、「イエスは人を愛
している。」そして、「イエスは人の罪の罰を
代わりに受ける為に、十字架にかかって死ん
だ」「誰でも、イエスの愛を心に受け入れる
なら、その人の全ての罪が赦される」そのよ
うなことを、時々、聞くようになりました。
「それでも、聖書の話を、現実のことと して、受け入れなかった、私の理由」 *** 愛
クJesus loves you”「イエスは、あなたを愛
している」 「おいおい、やめてくれよ!イエ
スが俺を愛してる?」皆さんはどう思われる
か知りませんが、当時、この love、愛、と
いう言葉を、誰かがそんな感じで使うのが、
私は、嫌でしかたなかった。男性と女性の間
だけで、いつか使うかもしれない言葉くらい
に考えていた私にとって、(日本では、普通、
そうでしたよね……)恥ずかしすぎて、意味
がわからんその言葉は絶対使わない!! キザ
過ぎ! 映画の中だけ! そのように、愛と
いう言葉を軽く口にする奴って、意味不明!
絶対変や!
*** イエスを紹介されるの、大嫌い!
『おいおい、聖書なんか開いて、イエスの
話なんかするなよ! 俺、聖書がホントだと
信じてないし! そんなもん引用するな!』
話は、また、ちょっと前に戻ってしまいま
すが、私が、そのことに関して、どれほど嫌
だったか、皆さんにもわかる出来事がありま
した。イエスのことを人から勧められること
がどれほど嫌だったか、また、その出来事で、
私が、どんなに短気で横柄だったか、どれだ
け自己中だったかもわかると思います。いや、
自慢してるんじゃあないんですよ。笑……。
「You clean it up !」『お前がかたずけろ!』
それは、私が、そこの若者たちと一緒に住
み始めて1〜2ヶ月経った頃だったでしょう
か。その家は、寝室が全部で 7 つか 8 つあ
る大きな家で、12 〜 13 人の若者が一緒に住
んでいた。2 階に住んでいたジョンのガール
フレンドのジュリア(その時、私は、彼女を
知らない)が家に来た。多分、ジョンを下で
待つつもりだったんでしょう。丁度その時、
私は、焼き飯を作って、居間のカウチで食べ
ようと、座ったところだった。すると、誰か
知らない一人の女が、カウチに座っていた私
のすぐそばの床に(私にとても近く)座り、
私を見上げて、こう言ったのです。クJesus
loves you” この言葉に、私は、すぐ、カッチ
ーーーンときました。そして、その女は、聖
書を取り出して、ページをめくり始めるので
す。それを見た私は、苛立つ気持ちを抑えて
クWould you please stop talking to me about
that?” と、優しく?その女に言いました。そ
れでも、その女は、俺が言ったことが聞こえ
なかったかのように、聖書のページをめくり
ながら、続けて俺に話そうとするのです。「俺
の言った事、全く無視??!!」ムラムラ、ガ
ッチーーーン!! 怒った俺は、まだ食べてな
い焼き飯を持って立ち、その女の後ろの壁に
向かって、思いっきり投げたのです。皿は割
れ、焼き飯が、カーペットのそこらじゅうに
散らばった!
多分、彼女はド、ド、ドタマゲター!でし
ょう! 座ったままの彼女を指さして、私は、
”You clean it up”「お前が片付けろ!」
と言って、そこを立ち去りました。ゲーーー
ーッ !!! でしょ? 『森繁さんって、ヒドイ
ーーオトコーー!!!』でしょ?
*** 「話が良すぎるやろ!」
「イエスを信じる者は、全ての罪を赦され
る ??」「おまえー! それ、話が良すぎるやろ
ぅ!」自分は何のつぐないもせんと、どんな
悪いことをやってても、ただ、キリストを信
じるだけで、全部の罪が赦してもらえる ??
絶対、都合が良すぎる! 適当な話やで!
*** 「昔、誰か賢い奴が、世界を平和にす
る目的で書いた本に違いない!」絶対、そう
いうもんやで!
上に書いたことは、私が、キリストの話を
現実として受け入れなかった、他の理由でし
た。しかし、無くならなかった!「何が?」
私の、「もし、本当なら知りたい」の願い。
『わからないことと、わかること。』
イエスについて書いてある事柄や、言ったこ
とが、本当なのか、それとも、作り話なのか、
私にはわからなかった。それは誰にもわから
ないだろう、と思った。(まあ、他の人のこ
とは、おいといて……)
しかし、わかることがあった。それは以前
にも書きましたが、『もし、創世記 1 章 1 節
に書かれている、天と地の造り主の神が本当
にいたら、私は、その方の前に罪人である』
ということでした。そのことは、はっきりわ
かっていました。もしいたら、ですが。
『罪』
その時の私が考えていた罪というのは、国
の法律を犯した時に言う罪(犯罪)じゃあな
く、また、映画なんかで昔聞いた、「あんた
罪な人ね。」と、人を対象にいう罪でもなかっ
た。それは、私がまだ知らなかった、天と地
の全てを造られた神の前での罪だった。本当
なら知りたいと思ってる私には、私の心のこ
とに関して、造り主の神の前ではどうなの
か? と考えるようになっていたのです。そ
のころです、昔聞いた、「嘘は泥棒の始まり」
というのは、当たってると思った。まだ神を
知らなかった私も、『自分で悪いと知ってい
ることを自分の意志でやる!』それが、かり
に、どれだけ小さいことだと考えられていた
としても、「悪くても良いんだ」の心の邪悪
さは、とどまるところを知らない可能性を
持ってると想像できました。そして、そのこ
とを自分の心の中に見たのです。また、世界
の全ての悪と呼ばれるものが、人の、その心
から始まってると想像できました。それも、
はっきりと。
それは、それまで生きて来た人生の善悪の
基準とは、全く異なったものでした。それが
わかったのは、私が、『もし、本当なら、知
りたい』と、願っていたからだと確信しまし
た。
その後、私の心に、何かが起こるのです。
『心の変遷』最終回だと思っていたのです
が、もうちょっと続きます。今回も、最後ま
で読んで下さって、ありがとうございました。
PS:ゴスペルは、良いお知らせです。悪
いお知らせではないのです。
のぼる
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