うちの実家では山を持っています。
その昔、時期になるとキノコとか、筍とかを採りに来る人たちがいました。
うちの土地だと知らないからです。
そうするとどうなるか。
看板が立つのです。
「山菜盗りの入山お断り」
厳密に考えると、山菜(に限らずその山の資源)は、
・山が私有地のならばその山の持ち主のもの
・山が公有地ならばその自治体のもの(保護対象)
なので、「立ち寄った人が勝手に採っていい山菜」なんてのは、存在しないはずなんです。
だから、「山へ山菜採りに行く」といった場合の「山」=「自分とこの山」だったわけです。
都会(?)に来て、びっくりしました。
「週末はあの山へ山菜を採りに行こう/行ってきた/採ってきたよ」
いーのか?、と。
「公有地のものは私のもの」「誰も採らないから私が盗る」
「どうせ誰かが採るのなら、私が盗ってしまえ」
こう考えているのなら、あなたは立派な略奪者です。
高山植物は採らずにいられるのに、山菜となると乱獲する。それはおかしくないですか?
●山菜採りは「誰もが乱獲者」
百歩譲って山菜採りが可能な土地があるとしても、「山菜採りは節度あるよう努めれば毎年楽しめる」、なんてのは現時点では幻想です。
誰も管理できてないからです。上のような考えの人々に、モラルなんて期待できません。
熊やたぬきなどの動物は、ハンターから逃走できます。でも植物である山菜は、逃げることができません。採られるにちょうどよい時期を誰の目にも触れずにやり過ごすしかないのです。
「山菜盗りは早い者勝ち。」
「私が盗らなくても、誰かが盗るだろう、なら私が盗る。」
こんな回路で行動しているひとたちに、節度なんか求めるのは、無理です。
「私はちゃんと後のことを考えて、そこそこ残してきた」ということがいたとしても、次に誰かが来たら? 何度も来たら? いずれ残さず盗られるでしょう。
では後の人だけが悪いのですか? いえいえ、それに関わったひと全員の問題だと思います。
あなたは残った新芽を摘まずに帰る信念がありますか。
こんなことを続けていれば、日本人はいつか山の幸を食い尽くすでしょう。
朱鷺のように絶滅してからでないと、それに気づかないんでしょうか。
だから、地元の人は看板を立てるのです。
「山菜採りの入山お断り」
さて、私は山へMTBで行くことが多いです。
おかげで山の幸に恵まれることもしばしば。野いちごとかね。
しかしこれも食べ尽くしていいものじゃありません。
山のものは山の生き物のもの。これは大原則です。おこぼれに預かる、くらいが最大量でしょう。(昨年は食べ過ぎたと反省しています。)
最近動物たちが里へ降りてきて畑を荒らす〜というニュースをききます。
これは「人が山の幸を奪っているから。」かもしれません。
「山菜採りの入山お断り」
この看板は山菜盗りの人以外にとっても、恐ろしいものです。
「「山菜採りの人は入っちゃダメ」か。じゃあ僕はMTB乗りに来ただけだから〜」といって走っていると、地元の方に止められて「出てけ」と言われる。
何も身に覚えは無い。
「お前かどうかは知らないが、MTBで山菜を乱獲していく奴がいた。だからMTBで入ってくる奴も同罪だ。入ってくるな。」
山菜を奪われる側からすれば、山菜採りが主目的か副次的かは関係ありません。山菜を持ち帰る者はすべて締め出す。
山菜なんか採ったこともないMTB乗りが来ても、締め出されてしまう。
山の自衛や管理を考えると、こうせざるを得ないでしょう。
私も自分の山だったら「とりあえず入らないで。入るときは許可とって。でも何も採らないで。」そう言うと思います。
「ここは誰も来ない秘密の場所だから、私だけが盗っていくんだ。大丈夫。」
あなたがそこにいることで、すでにこの言葉は矛盾しています。
じゃあどうすればいいんだ。
どうしたらいいんでしょうね。
自分で律することができれば、多少なら世の中、許してもらえるんじゃないでしょうか。
たとえば、
「ひとつの種類の山菜につき、一年に一度だけ。両手に乗るだけ。おすそ分け分は採らない。」
これでも十分に多いと思います。
これぐらい自律できれば、あるいは持続可能なのかなと思います。
山菜は、その多くが新芽です。果実とは異なり、採ってしまうとおしまいです。「また来年」は無いのです。
山菜採りに行く前に、ちょっとだけ考えてみてください。