業界最高年齢社長Halのゲーム日記 その179 パラダイムシフトな子たち編

2010/5/23 | 投稿者: Hal

驚天動地コペルニクス的転回

パラダイムシフトという言葉がある。

パラダイムとは、「ある時代に支配的な物の見方、考え方、認識の根本的な枠組みであり、思考や行為の基準、規範となる世界観」を言うそうだ。 ごく大雑把に言えば、「包括的価値観或いは世界観」ということになるのだろう。 したがって、その基準や世界観は時代により、或いは何かの革新的な考え方が提起された場合などに、変化する。 その変化が「パラダイムシフト」である。

これは勿論個人にとっても起こりうる。 私にとっては、二つの理論を知ったことが、その「パラダイムシフト」にあたる。 二つの理論とは、ドーキンスの「利己的な遺伝子」と、プランク、ボーアらの量子論(量子力学)である。

この二つは、私にとって文字通り驚天動地コペルニクス大展開のイデーだった。 目からうろこが取れたのか、それとも目にうろこが飛び込んだのか、いずれかはわからないが・・・

ドーキンスによる「利己的な遺伝子」の概要は、「生物の主体は遺伝子であって、個体は単なる乗り物(ビークル)に過ぎない!」ということだ。 今まで主体であった個体は、ドーキンスによればただの乗り物にすぎないということになる。 主体である複製子(遺伝子)は、それを乗り継いで自己の複製をより多く作ることに専念する。

これはダーウィンの古典的進化論から見ると、正に天と地が入れ替わったようなものだ。 人間も猿も祖先は同一というダーウィンの進化論は、1859年当時としては、特に宗教関係者などには受け入れがたいものがあっただろう。 しかしそれでさえ、生物の主体はあくまで個体である。 無論当時はDNAなどというものは、知られていなかったにせよである。

それがドーキンスにかかるといきなり主客逆転、本体の筈の個体は只の乗り物に格下げされてしまい、生物進化の主体は遺伝子ということになってしまった。

これが18世紀以前だったら、間違いなくドーキンスは焚刑に処されていただろう。 19世紀にダーウィンの進化論が発表された時でさえ、宗教界からの反発は非常に強く、英国国教教会から破門されかかったという。 19世紀でさえこの有様だから、それ以前の時代に「生物の主体は個体(人間個人)ではありません」などと言ったら、「こやつ悪魔の使徒に違いない」と、焚刑か車裂きかはたまた百叩きか。(^^;

この「利己的な遺伝子」を読んだ時は、それまで疑問に思っていたことの幾つかが、氷解した(と思った)。 何故生物は子孫を残すことを最優先にするのか、何故生物は子供を守るために生命までかけるのか。

ある種の鳥は、巣に近づいた敵を欺くために、怪我をした真似をして敵を巣から遠ざけるよう、誘導する。 一つ間違えれば、敵に襲われて自分自身が食われてしまうのに・・・

何故働き蜂は、幼虫の世話という、自分にとって何の得にもならないことをするのか。

こんなことが「利己的な遺伝子」を知ることによって、「そうだったのか・・・」と、なんとなくわかったような気分になってしまう。

もっともこの利己的な遺伝子説、これが人間レベルになると、「悪いのはワタシじゃない、遺伝子がそうさせるのだ」と、利己的な軽薄子の隠れ蓑にされてしまうこともあるようだ。


又、ドーキンスは又「ミーム」という概念も提示している。 
「ミームとは文化の伝達や複製の基本単位である。」

この「ミーム」という概念は、アジモフのファウンデーションシリーズの後期の作品及びベンフォード、ベア、プリンらの新ファウンデーションシリーズにも持ち込まれ、「模倣子」と訳されている。 アジモフらの小説では、「歴史上の人物の仮想人格」という形で表現されており、ヴォルテールやジャンヌ・ダルクが登場したりする。 このあたりになると、ドーキンスの提唱した概念とは、大分かけ離れているようだ。

もっとも、アジモフらがドーキンスの「ミーム」を知っていて小説に導入したのかは、本当のところ不明である。

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