葬儀場は、あらかじめ互助会に入っているところと決まっていたので楽でした。
しかし、病院でその葬儀場の電話番号がわからなかったので、ケータイ電話でググってみました。
母は、父が亡くなってしばらくしたら、病室を一生懸命片づけ始めました。
まだ看護師さんが父の体をきれいにする前にです。
片づけなんて、そんなに急いでする必要ないのに、なにか落ち着かなかったのでしょう。
葬儀屋の特殊車両で葬儀場まで父の遺体を運びましたが、病院の裏からの見送りが主治医はじめその階のほとんどの看護師さんが見送ってくれたような感じでした。
とても嬉しかったけど、看護師さんの忙しさを知っている自分としては、そんなにしてくれなくても、自分たちの仕事は大丈夫でしょうか、と逆に心配になってしまったくらいでした。
葬儀場に着いて、ちょっと落ち着いてから、通夜や葬儀の打ち合わせ・・・
これが2時間くらいだったと思いますが、なんか疲れました。
なにがいいのか経験がないので、「一般的にはどうしていますか?」「普通はどうなんでしょう?」ととても日本人的な質問をして、無難なところでお願いしました。
葬式の写真は、母の兄の子の結婚式の写真でした。
それをスキャナでとりこんで、遺影は液晶画面であったのがびっくりでした。
葬式は喪主としていろいろ決めなければならないことが多くあって結構大変でした。
日頃、なにかをしきったことがあまりありませんから・・・
きっと得意な人は得意なんだろうけど。
それでも友引をはさんだので、丸一日暇な日ができてちょっとだけ余裕がありました。
遺体は家に持ち帰らずに、葬儀場で預かってもらいました。
亡くなった日の翌日は丸一日暇ができたので、私はぼさぼさの髪の毛を切りに行きましたし、母は昔の喪服がぶかぶかなので買いに行ける時間がありました。
今回の入院期間は1ヶ月ちょっとでした。
私はそれほど頻繁には見舞いに行けませんでしたが、それでも病院が名古屋駅の帰り道の途中にあったということもあり、まあ行ったほうかと思います。
生きては帰れんなあ、が口癖でした。
でもまだまだ逝かんぞ、とも言っていました。
また、お前にも世話かけたなあ、と今までに聞いたことない言葉も言っていました。
母さんを責めてはいけないとも言っていました。
あいつはいいやつなんだとも。
病院の夜は長いとも言っていました。
寂しかったのだと思います。
それでも私の帰りが遅くなるのを心配して、もう帰っていいぞ、と言ってくれたりもしました。
最期の言葉はなんだったのだろう・・・
これといったものがなかったような・・・
最期意識がなくなる前は酸素マスクをしていましたが、呼吸が辛そうで、言葉を発することができない状態でした。
父は目に涙を浮かべていました。それをティッシュで拭いてあげました。
それは体が辛いからか、はたまた自分で最期ということがわかって寂しかったのか・・・
父が亡くなってから半月が経ちました。
四十九日法要などまだいろいろ残っているようですが、もうすっかり普通の生活になりました。
思いついたままを脈絡もなく書きましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。
【関連ページ】
2008/05/31「父のこと2」
http://hello.ap.teacup.com/d-inf/1479.html
2008/5/21「父のこと」
http://hello.ap.teacup.com/d-inf/1467.html
2008/5/13「実父亡くなりました」
http://hello.ap.teacup.com/d-inf/1463.html