久しぶりにきちんとした演劇を観る。
パンフレットによると、本来は俳優の数はもっと多く、セットはもっと大きく、上演時間ももっと長大らしいのだけれど、このコロナ禍の制約を受けて、今日の「ミニマル」な形に落ち着いたのだとか。
それにしても素晴らしい。
アタシが特に感心したのは舞台美術。
傾斜を持った弧が回転するのだけれども、これが時にはお立ち台に、またある時は舞台転換の幕代わりに、またある時は水面へと姿を変え、しかもこれは別の舞台からの再利用だというではないか。
一つの「面」を以て怒りにも悲しみにも変えてしまう「能」の境地を舞台装置に見たような気がしました。
今日の演出は(主演も)東京オリンピックの演出チームの総大将をかつて務めていた方だけれど、彼のチームが降りてしまったことが悔やまれます。
さて肝心の物語の方だけれども、教養のなさが露呈(爆)。
特に前半はなんのことやらという感じでした。
でも後半には馴染みのある登場人物が次々と現れ、舞台に吸い込まれていきました。
その一人、源義経。
今から書くことはこの戯曲の本筋でないことを予めお詫びしておくけれど、アタシ、どうして義経が日本人に愛されるのか分かっちゃった。
彼、不器用なんです。
そして報われないんです。
兄、頼朝の役に立とうと殊勲を挙げるのだけれど、それは頼朝がやって欲しい「やり方」で実現したものではない。
要は親分の「方針」を守っていないのだ。
分かる。
アタシも義経なのかも。
「判官びいき」という言葉がある。
アタシ、恥ずかしながら、「弱い側を応援する」くらいの意味だと思ってた。
関西人が阪神タイガースを応援するような。
でもこの言葉は報われない人に肩入れすることなのね。
源九郎判官義経。
この劇中何度も出てくるこの名前を聞いて、その意味を噛みしめておりました。

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