2007/3/21

エンジェルス イン アメリカ  舞台、ライブ

 第一部ミレニアムが3時間20分、第二部ペレストロイカが3時間10分という大作である。そして一部では単にパーツを与えられただけという、非常に奥深く難しい芝居でもある。それでも、見よう(知ろう)とする気力と集中力を途切れさせないパワーを持った芝居だ。
それはきっと、役者の力だけではなく、あの狭い空間をスピーディーに変えていく裏方の力量にもよるものだと思う。芝居がいくつかの空間、また幻想と現実をも行き来するので、繋がりを理解しづらいけれど、この芝居においてはどれも欠くことのできないピースなのだとも感じさせる内容の濃い作品でもある。

 登場するのは、ユダヤ人でモルモン教徒のジョー(パク・ソヒ)とその妻であり精神安定剤依存のハーパー(宮光真理子)、そしてユダヤ人で同性愛者のルイス(池下重大)とエイズに冒された恋人プライアー(斉藤直樹)の二カップルが主軸である。
弁護士のジョーは上司のロイ・コーン(山本亨)からワシントン行きを勧められるが、妻ハーパーは反対をする。
ジョーと同じく裁判所で文書係をしているルイスは、恋人プライアーがエイズと診断され入院したことで、プライアーから離れ別れるが、忘れられず涙している。
友人の黒人ドラッグクイーンで看護士ベリーズ(矢内文章)が、プライアーの面倒を看ると共に、(本人の主張によれば)肝臓癌(実はエイズ)の弁護士ロイ・コーンの看護にもあたる。
ハーパーは安定剤の幻覚の中でプライアーと会い、夫がゲイであることを知る。
ジョーは裁判所の化粧室で泣くルイスに会い、ゲイであることを見透かされる。
そして、プライアーの元には、先祖たちが先触れとして現われ、ついに天使(チョウ・ソンハ)が降り立つ。天使との間にSexを感じたプライアーは、Angelから預言者の証を受ける。
 プライアーの元を離れたルイスと、ハーパーから去ったジョーはセントラルパークで知り合い、一緒に暮らすようになる。
ソルトレイクで暮らす母親に「自分はゲイである」と告白し、心配した母ハンナ(松浦佐知子)は、家を売ってNYに出てくるが、家にジョーは居ず、ハーパーの世話をしながらNYで働くこととなる。
 ホモだということを隠して、レーガン政権とのパイプを繋いでいた弁護士ロイ・コーンはエイズと診断されたが、自分のことを「男とファックするヘテロだ」と言い切り、病名も肝臓癌だとして入院する。看護についたベリーズから試験薬AZTの情報を得、権力を振りかざして薬を独り占めする。が、彼の傍らには、彼によって処刑されたエセル・ローゼンバーグ(松浦佐知子)の幻影が来て、復讐の時を待っている。
別れたものの、ルイスはプライアーのもとに戻りたいと思い、ジョーもハーパーと暮らしたいと言うが、幻覚の中でプライアーから「お前の夫、ホモだ」と告げられたハーパーは、彼から離れていく。
 ロイ・コーンは死に、彼が集めたAZTは、ベリーズとルイスの手によってプライアーに渡る。
 そして5年後…命を永らえたプライアーはルイスと暮らし、セントラルパークのベセスダの泉のほとりで彼らは様々な議論を交わしている。
ジョーとハーパーは別れ、それぞれの暮らしを持っている。

 客席にいても、そこここから「前にも観たけど、難しくてよく分からなかった」と言う声が聞こえた。
私も94、95年のセゾン劇場も2004年のベニサンピットでの再演も観ているけれど、分かったとは言えない。今回の舞台も難しいことは難しいのだが、言葉や状況は今までで一番すんなりと入ってきたような気がする。
この芝居には、人種…宗教…政治的な信条…同性愛…といった様々な差別感がある。そして、そこが日本人にとっては理解に苦しむところなのだと思う。
まず、1980年代に突然のように登場したエイズという病気に対して、レーガン政権が親身に対策をとらなかったことに対しての政治批判がある。エイズが同性愛や麻薬常習者の間での発病であったことも、自業自得…のような差別感があったのかもしれない。そして、この脚本の時代には妙な楽観もあって、(当時はまだ試薬だった)AZTによって回復することも予測され、何よりエイズでの死に恐怖はあれど湿っぽさはない。
時代というものをよく読みとれたとは言えないけれど、この物語より約10年後のRENTの時代には、感染者たちが一斉にAZTを飲む"AZTブレイク"があるとこを思うと、90年代にはかなり公になったことを実感する。
公表できない…というマイノリティ意識は、ゲイであることも同様で、だからこそロイ・コーンは自分をゲイだとは認めず、病気も肝臓癌だと主張する。ジョーにとっては、敬虔なモルモン教という信仰も重なって、よけいにゲイであるとは言えない。
そして、人種としてはユダヤ人やベリーズのような黒人…。
ジョーの母ハンナも、ソルトレイクに住んでいる限りはモルモン教は当たり前だったのに、NYに出て来れば小数派になる。仕事をするにしても、モルモン教の会館の案内という閉じられた場所にしか居られない。
これらは、日本人が考える県民性とも違うものだ。韓国のように同じ氏同士では結婚できないとか、他の国のように宗教で対立するとか、政治についても党派の違いが国を二分するようなこともない。
 それぞれが別々の信条と個性を持っているアメリカだからこそ、Angels in Americaでは"許し"や"対話"…相手を認めるということが必要だったのだと考える。日本は単一民族なので、根源には"一緒"の意識がある。人がどうであれ普段は"何となく"お付き合いをし、信条の部分はそれを分かち合える場所と人の間で発揮される。公私が分かれているからこそ、公の場で私を出して議論することは憚られるし、許しは時に放任にもなりかねない。

 94年に観たときはまだ、ミレニアムの実感もなかったのに比べて、今になると、Angelが言っていた「もっと怖ろしい破壊…」の意味も分かる。
あの時代に、もっとエイズ対策を講じていたなら、薬の開発や治療法も敵っていたかもしれない。ハーパーが見ていたオゾン層の脅威にも、ちゃんと対処していたら、ゴア氏の「不都合な真実」がアカデミー賞で注目されるようなこともなかったかもしれない。
今になって検証しても仕方ないことかもしれないけれど、80年代のあのバブリーな時代に見落としていたもののとばっちりが、今になって、いやこれから後の世の中に起きるのかもしれないと、怖れを感じた。
そのためにはやはり、"とどまる"のではなく"変わらなければならない"ということなのだろうか…。私には"前進"という言葉が身に染みた今日であった。
0



コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




Powered by teacup.ブログ “AutoPage”