資源枯渇に対し、再び操業海域変更による産業継続が図られ、大西洋を南下した捕鯨船はサウス・ジョージア諸島やサウス・シェトランド諸島に基地を設けて活動した。20世紀初頭には、これらの島を拠点に、手付かずに近かった南極海での本格的な捕鯨が始まった。まず、ノルウェーが操業をはじめ、すぐにイギリスが続いた。1923年にはロス海にノルウェー船団が進出した。イギリスは南極周辺で領有権を主張しノルウェー捕鯨船の排除を試みたが、ノルウェーは洋上で鯨を収容して解体できるスリップウェー付の捕鯨母船を1925年に投入し、公海上での捕鯨で対抗した。この新型捕鯨母船はイギリスも採用するところとなり、1930年には両国あわせて40隻近い母船と200隻以上の捕鯨船を南極海に出漁させた。ノルウェーとイギリス以外の国も南極海での捕鯨に関心を抱き、1934年に日本、1936年にドイツが捕鯨船団を出漁させた(パナマとアメリカは便宜置籍船)。
南極海は他の漁場に比べて資源量が大きかったが、それでも乱獲により資源減少は生じた。ザトウクジラが最初の捕獲対象となり、1910/1911年期には8000頭以上が捕獲されたが、1918年には200頭以下に激減してしまった。以後は、シロナガスクジラが主たる捕獲対象となり、頂点となった1930年には3万頭近くが捕獲された。その後、シロナガスクジラは減少してしまい、1930年代後半にはナガスクジラが頭数の上では中心となった。
第二次世界大戦による2年間の中断後、1943年にはノルウェーが操業を再開した。イギリスと日本も捕鯨船団の再建を行い、1946年には新たにオランダとソ連、南アフリカも加わった。以後、1960年頃まで母船数は約20隻で、鯨油約40万トンが生産される状況が続いた。捕獲対象はシロナガスクジラの減少が止まらず完全にナガスクジラが中心となり、ナガスクジラは約2万8千頭の捕獲が続いた。南極海の通常型シロナガスクジラはついに1963年に禁漁となった。ナガスクジラも1963年以降に捕獲が激減し、代わってイワシクジラが捕獲されるようになった。
[日本における捕鯨史]
日本の捕鯨は、初期捕鯨時代(突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨)、網取式捕鯨時代、砲殺式捕鯨時代の3期に分けることができる。また突き取り式捕鯨・追い込み式捕鯨・受動的捕鯨においては日本各地で近年まで行われていた。この内、追い込み式捕鯨はイルカ漁など比較的小型の鯨類において現在も継続している地域もある。
日本における捕鯨の歴史は、縄文時代までさかのぼる。約8000年前の縄文前期の遺跡とされる千葉県館山市の稲原貝塚においてイルカの骨に刺さった黒曜石のヤス(槍)先の石器が出土していることや、富山湾に面した石川県真脇遺跡で大量に出土したイルカ骨の研究によって、積極的捕獲があったことが証明されている。縄文時代中期に作られた土器の底には、鯨の脊椎骨の圧迫跡が存在する例が多数あり、これは脊椎骨を回転台として利用していたと見られている。
弥生時代の捕鯨については、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代中期の甕棺に捕鯨図らしき線刻のあるものが発見されており、韓国盤亀台の岩刻画にみられる先史時代捕鯨図との類似性もあることから、日本でも弥生時代に捕鯨が行われていた可能性が高いと考えられるようになった。長崎県松浦郡における弥生時代後期の原ノ辻遺跡においては、鯨の骨を用いた紡錘車や矢尻などが出土しており、さらに銛を打ち込まれた鯨と見られる線画が描かれた壷が発見された。もっとも、大型のクジラについては、入り江に迷い込んだ個体を舟で浜辺へと追い込むか、海岸に流れ着いた鯨を解体していたと見られている。
北海道においても、イルカなどの小型のハクジラ類の骨が大量に出土している。6世紀から10世紀にかけて北海道東部からオホーツク海を中心に栄えたオホーツク文化圏でも捕鯨が行われていた。根室市で発見された鳥骨製の針入れには、舟から綱付きの離頭銛を鯨に打ち込む捕鯨の様子が描かれている。オホーツク文化における捕鯨は毎年鯨の回遊時期に組織的に行われていたと見られ、その影響を色濃く受けたアイヌの捕鯨は明治期に至るまで断続的に行われていたとされる。アイヌからの聞き取りによると、トリカブトから採取した毒を塗った銛を用いて南から北へと回遊する鯨を狙うという。鯨を捕らえることは数年に一度もないほどの稀な出来事であり、共同体全体で祭事が行われていたという。
奈良時代に編纂された万葉集においては、鯨は「いさな」または「いさ」と呼称されており、捕鯨を意味する「いさなとり」は海や海辺にかかる枕詞として用いられている。11世紀の文献に、後の醍醐組(房総半島の捕鯨組)の祖先が851年頃に「王魚」を捕らえていたとする記録もあり、捕鯨のことであろうと推測されている。
鎌倉時代の鎌倉由比ヶ浜付近では、生活史蹟から、食料の残存物とみられる鯨やイルカの骨が出土している。同時代の日蓮の書状には、房総で取れた鯨類の加工処理がなされているという記述があり、また房総地方の生活具にも鯨の骨を原材料とした物の頻度が増えていることから、この頃には房総に捕鯨が発達していたことや産物が鎌倉地方へ流通していたことが推定されている。
海上において大型の鯨を捕獲する積極的捕鯨が始まった時期についてははっきりとしていないが、少なくとも12世紀には湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する追い込み漁が行われていた(かつては弓矢を利用した捕鯨が行われていたとする見解があったが、現在では否定されている)。
突き取り式とは銛、ヤス、矛(槍)などを使って突いて取る方法であり、縄文時代から離頭式銛などで比較的大きな魚(小型のクジラ類を含む)を捕獲していた。また遺跡などの壁画や土器に描かれた図から縄文や弥生時代に大型のクジラに対し突き取り式捕鯨を行っていたとする説もある。
1764年(明和元年)に著された『鯨記』によれば、大型のクジラに対しての突き取り式捕鯨(銛ではなく矛であった)が最初に行われたの1570年頃の三河国であり6〜8艘の船団で行われていたとされる。15世紀になると鯨肉を料理へ利用した例が文献に見られる。それらの例としては、1561年に三好義長が邸宅において足利義輝に鯨料理を用意したとする文献が残されている。この他には1591年に土佐国の長宗我部元親が豊臣秀吉に対して鯨一頭を献上したとの記述がある。これらはいずれも冬から春にかけてのことであったことから、この時季に日本列島沿いに北上する鯨を獲物とする常習的な捕鯨が開始されていたと見られる。三浦浄心が1614年(慶長15年)に著したとされる『慶長見聞集』において「関東海にて鯨つく事」という一文があり文禄期(1592〜1596年)に尾張地方から鯨の突き取り漁が伝わり、三浦地方で行われていたことが記述されている。
戦国時代末期にはいると、捕鯨用の銛が利用されるようになる。捕鯨業を開始したのは伊勢湾の熊野水軍を始めとする各地の水軍・海賊出身者たちであった。紀州熊野の太地浦における鯨組の元締であった和田忠兵衛頼元は、1606年(慶長11年)に捕鯨用の銛を使った突き取り法よる組織捕鯨(鯨組)を確立し突組と呼称された。これらの捕鯨技術は三陸海岸、安房沖、遠州灘、土佐湾、相模国三浦そして長州から九州北部にかけての西海地方などにも伝えられている。
1675年に網取り式捕鯨が開発された後も突き取り式捕鯨を継続した地域(現在の千葉県勝浦など)もあり、また明治以降にも捕鯨を生業にしない漁業地において大型のクジラなどを突き取り式で捕獲した記録も残っている。
1675年(延宝3年)には、同じく太地の和田角右衛門頼治(太地角右エ門)が、あらかじめ設置した網の中に勢子船を用いて鯨を追い込み、銛で捕獲する網取り式を考案した。さらに同時期には捕獲した鯨の両端に舟を挟む持双と称される鯨の輸送法も編み出され、これにより捕鯨の効率と安全性は飛躍的に向上した。また、親子連れの鯨のうち子供を傷つけることで、子供をかばおうと留まる親鯨をも捕獲する方法が開発され、広く用いられた。当初はゴンドウクジラなどの小型のハクジラ、及び遊泳速度の遅いセミクジラやコククジラなどを穫っていたが、後にはマッコウクジラやザトウクジラなども対象となった。これらの技術的な発展により、紀州では太地浦、古座浦、三輪崎浦を中心として、紀州藩直営の捕鯨事業が繁栄することになった。
土佐の安芸郡津呂浦においては多田五郎右衛門によって1624年(寛永元年)には突き取り式捕鯨が開始されていたが、その子孫らが紀州太地へと赴き1683年(天和3年)に和田角右衛門頼治から網取り式捕鯨を習得している。西海地方においても同様に17世紀に紀州へと人を向かわせ、新技術を習得させている。この網取り式の広まりにより、捕獲容易なコククジラなどの資源が減少した後も、対象種を拡大することで捕鯨業を存続することができたとも言われる。
江戸時代の鯨は鯨油を灯火用の燃料に、その肉を食用とする他に、骨やヒゲは手工芸品の材料として用いられていた。1670年(寛文10年)に筑前で鯨油を使った害虫駆除法が発見されると[4]、鯨油は除虫材としても用いられるようになった。天保三年に刊行された『鯨肉調味方』からは、ありとあらゆる部位が食用として用いられていたことが分かる。鯨肉と軟骨は食用に、ヒゲと歯は笄(こうがい)や櫛などの手工芸品に、毛は綱に、皮は膠に、血は薬に、脂肪は鯨油に、採油後の骨は砕いて肥料に、マッコウクジラの腸内でできる凝固物は竜涎香として香料に用いられた。
江戸時代における捕鯨の多くはそれぞれの藩による直営事業として行われていた。鯨組から漁師たちには、「扶持」あるいは「知行」と称して報酬が与えられるなど武士階級の給金制度に類似した特殊な産業構造が形成されていた。捕獲後の解体作業には周辺漁民多数が参加して利益を得ており、周辺漁民にとっては冬期の重要な生活手段であった。捕鯨規模の一例として、西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの加子を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んでいる。また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなるとしている。江戸時代の捕鯨対象はセミクジラ類やマッコウクジラ類を中心としており、19世紀前半から中期にかけて最盛期を迎えたが、従来の漁場を回遊する鯨の頭数が減少したため、次第に下火になっていった。また、鯨組は膨大な人員を要したため、組織の維持・更新に困難が伴ったことも衰退に影響していると言われる。
鯨組などによって組織捕鯨が産業化する一方、島しょ部性(面積あたりの海岸線延長の比率)の高い日本においては寄り鯨や流れ鯨による受動的捕鯨が多く発生し、鯨が齎(もたら)す多大な恩恵から海浜地区において地域間の所有や役割分担による報酬をめぐって度々紛争なった。これを危惧し江戸幕府は「鯨定」という取り決めを作り、必ず奉行所などで役人の検分を受けた後、分配や払い下げを行うようにした。
江戸時代末期、ペリー来航を期として開国すると、海軍養成の目的も兼ねて西洋式の新たな捕鯨法に関心が集まるようになった。難破した漁船からアメリカの捕鯨船に救助された中浜万次郎は、1863年に幕府の命令によってアメリカ式捕鯨法を試験的に試みている。この他にも福岡藩・山口藩・仙台藩などの地域においてアメリカ式捕鯨法が行われたが、いずれも知識や道具の不足によって失敗している。
明治時代に入ると、従来の網取法とアメリカ式捕鯨において用いる捕鯨銃を組み合わせた漁法が行われるようになった。この際に用いられた捕鯨銃は1840年代にアメリカで開発されたボムランス銃 (Bomb Lance Gun、ボンブランスとも) と呼ばれる物で、銛に爆薬が仕込まれており、手持ち式または甲板に固定して用いられた。金華山漁業株式会社などが行ったといわれる。網取法との併用は明治時代末まで続いた。捕鯨銃は改良されながら太地のゴンドウクジラ捕鯨などで1950年代まで使用されている。
ボムランス式捕鯨銃さらに、漁港周辺の漁場では資源が不足するようになったため、ノルウェー式捕鯨法による遠中距離の漁場における捕鯨が試みられるようになる。捕鯨砲を装備した捕鯨船によるこの漁法は、朝鮮近海において操業していたウラジオストックを基地とするロシア太平洋捕鯨会社の活動に影響を受けていた。明治30年前後には捕鯨基地港において捕鯨会社が相次いで設立され、鮎川のように従来は捕鯨が行われていなかった東北や北海道にも捕鯨会社が進出した。日本近海におけるロシア、アメリカ、イギリス等の外国捕鯨船による捕鯨の活発化を懸念した明治政府も、1897年(明治30年)に遠洋漁業奨励法を発布し国内捕鯨の近代化を後押ししている。
ノルウェー式捕鯨の導入にあたっては捕鯨用具の購入はもとより、砲手もノルウェー人を雇いれていた。乗組員には旧鯨組の漁師が多く含まれ、彼らの中から日本人の砲手も育成されていった。北九州などでは「山見」などの鯨組時代の組織がそのまま捕鯨会社に活用されていた。解体技術にも旧来の方式が引き継がれていた。
1908年(明治41年)に活動していた日本における捕鯨会社は12社28隻に達していた。政府は、日本近海における鯨の頭数を保護することが必要であると認識しており、過当競争防止の必要もあって1909年(明治42年)に鯨漁取締規則を発布し、全国の捕鯨船を30隻以下に制限している。捕獲対象はナガスクジラとマッコウクジラ、イワシクジラが中心となり、資源の減少したセミクジラやザトウクジラに替わって捕獲された。
昭和期になると母船式遠距離捕鯨が開始され、日本捕鯨株式会社(現在の日本水産株式会社)や大洋捕鯨株式会社(現在のマルハ株式会社)による南極海でのシロナガスクジラ捕鯨が行われるようになった。南極海での母船式捕鯨は、輸出用の鯨油生産が主目的で、外貨獲得源として重視された。既存の沿岸漁業との競合防止のため製品の持ち帰りが制限されており、日本では冷凍輸送が未発達であったこともあって鯨肉の利用は極めて限定的だった。また、鯨油タンクや船団への補給用燃料タンクを持つ捕鯨母船は、タンカーとしての運用が可能なため、軍事上の観点からも政府の支援が行われた。
第二次世界大戦の際には捕鯨船の多くが軍に徴用され、うち捕鯨母船はタンカーに転用されて総て失われた。かくて母船式捕鯨は一旦中断したものの、1946年(昭和21年)には再建が開始され、食肉供給源および鯨油輸出による外貨獲得源として重要産業となった。捕鯨船団は急速に拡充され最大7船団に達し、1950年代の終わり頃からは世界最大の捕鯨国となった。戦前は国際的な捕鯨管理枠組みには参加していなかったが[7]、戦後に国際捕鯨委員会 (IWC) が設置されるとこれに加盟した。
捕鯨船団の構成はさまざまであった。最盛期の代表例として日新丸船団の場合は次の通りであり、数万トンに達する大船団であった。
捕鯨母船日新丸(16,811トン) - 捕獲したクジラの解体作業を行う。
付属捕鯨船12隻 - 600〜700トン級。うち探鯨船1隻、曳鯨船2隻で残りはキャッチャーボート
鯨肉冷凍工船3隻 - 計2万総トン
冷凍鯨肉運搬船6隻 - いずれも1000トン級
タンカー(13,155トン) - 給油船と鯨油運搬船を兼ねる。
技術的発展としては、1951年(昭和26年)に「平頭銛」が開発されたことや魚群探知機の導入などがある。先端が平らな平頭銛は水中での直進性に優れ、浅い角度で命中した時の跳弾も少ない銛で、日本海軍が開発した九一式徹甲弾の技術が応用されていた。
操業は資源の減少により対象種をシロナガスクジラからナガスクジラ、さらにイワシクジラやミンククジラへと移しながら継続されたが徐々に縮小され、1976年(昭和51年)には水産会社ごとの操業は断念されて日本共同捕鯨株式会社に統合された。1982年(昭和57年)にIWCで商業捕鯨停止が決議されると、後に日本もこれを受け入れて、1986年(昭和61年)に南氷洋での商業捕鯨としての母船式捕鯨は完全停止された。1988年(昭和63年)には、太平洋でもミンククジラとマッコウクジラの商業捕獲が停止した(商業捕鯨モラトリアム)。
現在では、母船式捕鯨と沿岸捕鯨を併用した調査捕鯨と、IWC管理対象外の鯨種(小型鯨類)を対象とした漁業としての沿岸捕鯨のみが行われている(詳細は後述の#日本における捕鯨参照)。
[年表]
鯨の料理紀元前6000年ころ、日本の千葉県館山市の稲原貝塚からイルカの骨に刺さった黒曜石のヤス先の石器が出土している。
紀元前3000年ころ、日本の縄文時代の三内丸山遺跡からクジラの骨が出土している。
紀元前3000年以降、ノルウェーで小型ハクジラ捕鯨を描いた洞窟壁画が残される。積極的な捕鯨の証明。
700年ころ、古事記に神武天皇に鯨肉を奉った話がある。
11世紀、ビスケー湾でバスク人が大規模な捕鯨を開始する。
1200年ころ、日本でも「突取式捕鯨」が生まれる。
1590年代、オランダが北極海でホッキョククジラ捕獲を開始。
1606年、日本の和歌山県太地浦で捕鯨用の銛を使った「組織捕鯨」が始まる。
1677年、日本の和歌山県太地浦で「網取式捕鯨」が始まる。
17世紀ころまでに、北大西洋のコククジラ絶滅。
1868年、ノルウェーが捕鯨砲を実用化。ノルウェー式捕鯨を開始。
1903年、オランダが世界初の捕鯨用工船を就役させる。
1904年、ノルウェーが南極海のシロナガスクジラ捕獲を開始。イギリスが続き1931年にピークを迎える。
1925年、ノルウェーがスリップウェーを装備した本格的捕鯨母船を就役させる。
1931年、国際連盟の枠内でイギリス、ノルウェーなど8カ国がジュネーブ捕鯨条約を締結(1936年発効)。タイセイヨウセミクジラの禁漁や親子鯨の捕獲禁止などを定めた。
1932年、鯨油生産調整のため、一部捕鯨会社の協定でシロナガス換算方式(BWU)の捕獲枠設定を開始。
1934年、日本が南極海でのシロナガスクジラ捕獲を開始。
1937年、イギリス、ノルウェーなどがロンドン国際捕鯨協定締結。コククジラの禁漁。南極海のシロナガスクジラ捕鯨の漁期制限開始。マッコウクジラ肉を除く鯨体の採油への完全利用などを定める。
1946年、国際捕鯨取締条約 (ICRW) 締結。これにより2年後国際捕鯨委員会 (IWC) 成立(日本は1951年加盟)。
1963年、IWCで南極海の通常型シロナガスクジラの商業捕獲が禁止される。
1974年、IWCが「新管理方式(NMP)」採用。以後ナガスクジラやイワシクジラなど次々と商業捕獲禁止となる。
1982年、IWCで商業捕鯨の一時停止決議(商業捕鯨モラトリアム)。日本も1985年に受け入れ。
1987年、日本が南極海でミンククジラ捕獲調査を開始。
1988年、日本が北太平洋でのミンククジラとマッコウクジラの商業捕鯨を中止。
1994年、IWCが「改定管理方式 (RMP) 」採択。
1997年、ノルウェーが北大西洋でのミンククジラの商業捕獲をしていることを公式に認める。
2006年、アイスランドが北大西洋でのミンククジラの商業捕獲再開を宣言(翌年には再停止)。
[現在日本にある捕鯨基地]
網走市(北海道)釧路市(北海道) 函館市(北海道)
石巻市鮎川浜(宮城県)南房総市和田町(千葉県)
太地町(和歌山県) 下関市(山口県)
捕鯨活動に関連して、捕鯨従事者など特有の文化が生まれた例がある。日本では、捕鯨従事者を中心にその地域住民に捕鯨行為に対しての安全大漁祈願や、鯨に対する感謝や追悼の文化が各地に生まれた。鯨漁を生業としない漁師が偶然、鯨を捕獲してその地域が大漁に沸いた事や鯨に対しての感謝や追悼を記念し後世に伝承していた例もある。「鯨一頭(匹)七浦賑わう(潤う)」という言葉に象徴される。
鯨墓・鯨塚
日本各地に「鯨墓」(げいぼ、くじらばか)、「鯨塚」(くじらづか)などと呼ばれる記念碑がある。これは、捕鯨により食料や金銭を得られたことに対する感謝や追悼の気持ちを表して建てられたものである。捕鯨を主要な漁業として日常的に行っていた漁村には必ずといってよいほど存在するが、特定の故事をきっかけに建てられたとの伝承が残されているものもある。山口県長門市や大分県臼杵市のものが有名。
鯨神社・鯨寺
日本各地に鯨に纏わる神社があり、俗称として鯨神社と呼ばれているものもある。多くは鯨の遺骸の一部(骨など)が御神体になっていたり、捕鯨行為自体を神事としている神社などがある。なかには鯨のあご骨でできた鳥居を持つ神社もある。
日本各地に鯨を供養した寺があり、俗称として鯨寺と呼ばれているものもある。多くは鯨の墓や戒名を付けたりなどしているが、鯨の過去帳を詳細に記述している寺などがある。なかには鯨観音とよばれる観音をもつ寺もある。
鯨唄・鯨踊り・鯨太鼓
日本各地に鯨に対する漁の感謝や追悼を表した唄がある。主に鯨漁を生業にしていた鯨組により奉納されたものであり、現在も伝承され無形文化財指定を受けるものもある。山口県長門市通の通鯨唄などが有名で、所作として鯨への哀悼の意味から合いの手は禁止されているのが特徴である。他には組織的捕鯨の発祥の地とされる和歌山県太地町の太地鯨唄や千葉県勝山の浮島神社に伝わる鯨唄や佐賀県唐津市呼子町の鯨唄などが挙げられる。また鯨に対する漁の感謝や追悼を表した「鯨踊り」や「鯨太鼓」などの伝統芸能も各地で伝承されている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
くじら博物館
http://www.town.taiji.wakayama.jp/hakubutukan/index.html
超人食クジラ
http://www.choujintairiku.com/kujira/
捕鯨問題Q&A 日本捕鯨協会
http://www.whaling.jp/qa.html

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