「サンジェルマン伯爵(Comte de Saint-Germain)」
その他

18世紀、ルイ15世時代のフランス宮廷に突如登場した生没年不詳の錬金術師。
「不死の人」と呼ばれ、ヨーロッパ各所に様々な年代に現れた怪人だが、確認できる記録に現れるのは1710年。フランスの音楽家ジャン・フィリップ・ラモーの日記によれば、当時50歳前後に見えたという。しかしその25年後、1735年にオランダのハーグに現れた彼は25歳前後に見えたと言う。その後、1750年にルイ15世と謁見した彼は40歳前後、1760年前後のルイ15世時代のヴェルサイユ宮殿には50年前と同じく50歳前後の姿で現れている(これらの記述から、1710年の人物と1735年以降の人物は別人であるとする説もある)。
多くの外国語に堪能で医学や科学の知識にも優れ、優雅で洗練された物腰のため、フランス宮廷で人心を集めた。ヴォルテールをして「彼は何でも知っている」と言わしめたという。ルイ15世の依頼でダイヤモンド内部の傷を取ったという話も残っている。
ポルトガル系ユダヤ人とも、ルーマニア王家に縁の人物(ただし、当時ルーマニアは国家としてはまだ存在していなかった)ともいわれ、自分の年齢を二千歳とも四千歳であるともし、ソロモン王やシバの女王と面識があったとも語った。十字軍では、パレスチナにおいて、イングランド王リチャード1世とも会話したともいう。また「自分は不老不死なので、霊薬を口にする他は食事は必要としない」と言って、実際に人前では全く食事をしなかった。
ルイ15世はサン・ジェルマンを気に入り、シャンボール城に彼のための錬金術実験室も用意させた。またフランスの外交特使として各国に派遣され活躍したが、同時にプロイセン王国のフリードリヒ大王にも仕えた秘密外交官であったと言う。1762年、ロシアのエカチェリーナ2世の即位に至るクーデターに加担したとも言われている(この時にはヴェルダン伯爵という別名を名乗っていた)。しかしルイ16世の代になると先代ほどの信頼を得ることができず、フランス革命を予言して警告するも、聞き入れられなかった。その後フランス革命前後の時期にもフランス国内に現れ、1792年の王妃マリー・アントワネットの処刑の折、見守る群衆の中にサン・ジェルマンの姿があったという。また同時期の錬金術師として知られるカリオストロの師匠であったという風評も多く残っているが、この二人が接触していたことを裏付ける資料は確認されていない。
サンジェルマン伯爵は、自分の年齢を300歳とも2000歳とも4000歳とも言っていた。サン・ジェルマン伯爵の使用人も「私がお仕えしてからまだ500年しか経っていません。」と言っていた。
中世のイギリス国王であるリチャード獅子王のことを親しげに語り、十字軍で一緒に戦った“思い出話”をなつかそうに語っていた。
「バビロニアにいたころには、ネブカドネザル大王が建設したバビロンの都にもよく行きましたよ。実際、あれは壮麗この上ない都だった…。」と、当時を振り返り溜息をついていた。
私は今から200年以上も前に、スペイン国王フェルディナンド5世の大臣をしたこともあるんだよ。」と言い、信じようとしない相手には、当時の極秘の公文書を取り出して見せた。「イエスにも会ったことがあるが、イエスが水をワインに変えた時は、みんなして驚いたものだよ。それが“カナの婚礼”の奇跡として後世に知られるようになるとはねぇ…。」と、言っていた。
ルイ15世は、シャンボール城内にサン・ジェルマン伯爵専用の錬金術実験室を用意させて、政治の秘密工作の研究に従事させていた。莫大な財産を持っていた。サン・ジェルマン伯爵が所有する貴金属や宝石類の数の多さと質の高さにおいては、ヴェルサイユ宮殿にまで噂が広まった。彼の財力が一体どこからきているかは、誰も知ることができなかった。東方に旅行に出かけることが多かった。実はプロイセンのフリードリヒ大王に仕えていた秘密外交官、スパイであった。薔薇十字団に加入している。
ルイ15世に見事なダイヤモンドを差し出した彼は、「いったいどこでこんな素晴らしいものを?」と聞かれ、「買ったのではありません。それは私が作ったのです。」と答えた。ルイ15世からの依頼で、ダイヤモンドの傷を取った。絹を染める染色技術や、皮をなめして驚くほど柔らかくする皮革技術など、18世紀にはまだなかったはずの様々な技術を身につけていた。超人的な語学力の持ち主で、フランス語、英語はもちろん、スペイン語、ロシア語、ドイツ語、ヘブライ語、サンスクリット語、アラビア語、ペルシャ語、中国語まで話せた。
画家のラトゥールは、サン・ジェルマンが使っている独特な絵の具の製法を教えてくれと何度も頼んだが、とうとう最後まで教えてもらえなかった。亜麻糸を使って絹のような布を織る工場をベニスにもっており、その技術は彼が開発したもので、100人ほどの労働者が工場の仕事に従事していると言っていた。
サン・ジェルマン伯爵の実験室に招かれたカサノヴァは、盤の上に銅貨を一つ置くように言われたので置いてみると、突然パッと炎があがり、それがおさまると銅貨は金に変わっていた。彼は右手と左手が同じように使えた。両方の手で別々に文字を書いて重ねると、ピッタリ合った。サン・ジェルマン伯爵は、「自分はかつてエジプトのピラミッドの中で修行し、ヒマラヤに行って、全てを知っている聖者たちに会って多くのことを学んだ」と語っていた。
サン・ジェルマン伯爵の友人は、「彼は扉を通らないで自室や友人の部屋に姿を現したり、出ていったりすることができた。(姿を現したり消したりしているように見えた)」と証言した。
サン・ジェルマン伯爵は、賢者の石をもつ錬金術師である。錬金術師として知られるカリオストロ伯爵の師匠である。ナポレオンはエジプト遠征の前とエルバ島へ流される数ヶ月前の2回「『チュイルリー宮殿の赤い服の男』に会い、助言をうけた」と言われているが、この『赤い服の男』が、サン・ジェルマン伯爵だった。
人から何かを尋ねられる前に、相手の質問を見ぬく力をもっていた。また、彼は遠い街や国で自分が必要とされている時には、テレパシーでそれを感知することができた。早い話が超能力者であった。
1747年〜1756年の間に、少なくとも2年間はインドへ旅したという彼と「現地で会ったことがある」と証言しているクリーヴという人物は、「彼はインドで秘教的なすばらしい知識を得た」とも証言している。サン・ジェルマン伯爵は、人類を導くイニシエート(秘儀参入者)である。プロイセンのフリードリヒ大王は、彼の事を「決して死ぬことのない男」と言っていた。
フランス革命前後のフランス国内に現れたサン・ジェルマン伯爵は、王家の危機を予言し、マリー・アントワネットに手紙で警告したが、聞き入れられなかった。ルイ16世夫妻が捕らえられていた頃、当時侍女だったアデマール夫人は、サン・ジェルマン伯爵の使いだと名乗る者にある教会に連れていかれ、サン・ジェルマン伯爵を目撃した。彼はアデマール夫人に、「私は永遠に時を旅しているので未来のことが分かるのです。私はちょうど今、日本から帰ったばかりですが、国王夫妻は私の忠告を聞こうとしなかったようですね。もうあの2人はおしまいですが、それは私には関係のないことです。」と、言った後、忽然と姿を消した。『回想録』の中で、このサン・ジェルマン伯爵との出会いを書いているアデマール夫人は、「サン・ジェルマン伯爵には合計5回会っているが、いつも言葉では語れない驚きがあった」と語っている。
マリー・アントワネット処刑の当日、刑場でサン・ジェルマン伯爵を見た者がいる。第二次大戦中、当時のイギリスのチャーチル首相は、サン・ジェルマン伯爵に会って、助言を受けた。1784年以降に現れたのは、サン・ジェルマン伯爵の名を語った偽者である。1822年、「これからインドに行く。」というサン・ジェルマン伯爵に会ったという目撃談がある。東洋の秘教の原理に完全に精通していて、瞑想と集中を実践していた。数回にわたってヒンドゥー教徒のような姿勢で座禅を組んでいたこともある。ヒマラヤ山脈の中心に隠遁所をもっていて、時折、世俗を離れてそこで暮らしている。修行のためにインドに85年間とどまっていた。1939年の記録では、アメリカの飛行士が、「チベットでサン・ジェルマンと名乗る“中世の頃の身なり”をしたヨーロッパ人の僧侶と会った」と、主張している。
サン・ジェルマン伯爵の死については、1777年にドイツのカッセルで死去とも言われているが、ドイツのエッケルフェアデ教会の記録には、「1784年2月27日死去、3月2日埋葬」という記録が残されている。しかしその後もヨーロッパ各地で目撃が報告されており、1785年に友人の前に姿を現したサン・ジェルマン伯は、これからヒマラヤに隠遁すると告げている(但しその友人がどこの誰なのかは不明)。また1821年には教育家ステファニー・フェリシテ女史が彼に面会したと語っている。なおフランス革命後、皇帝ナポレオン1世もサン・ジェルマンの行方を追わせている。ナポレオンはエジプト遠征の前とエルバ島へ流される数ヶ月前に「“チュイルリー宮殿の赤い服の男”に出会い、助言をうけた」と言われており、この“赤い服の男”がサン・ジェルマン伯爵だという説がある。

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