2007/2/15  12:42

抵抗の群像小野沢亘  資料・文献


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美人画からプロレタリア美術運動へ
小野沢 亘の生涯


小野沢亘は一九〇九(明治42)年、東京・小石川の共同印刷工場近くの貧しい職工の家に生まれた。小学校を終えると徳永直の『太陽のない街』で有名な共同印刷に就職したが、厳しい労働で肋膜炎を患い退職。医者に「重労働はだめ」と宣告され、好きな絵描きをこころざす。同じ小石川にあった川端画学校に入学。日本画科で美人画ばかり描いていた。そんな折、転機が訪れる。当時(昭和5年)、小林多喜二の『蟹工船』が評判になっていた。モデルにきていた市バス車掌たちと画学生仲間が『蟹工船』の話をはじめる。特に漁夫たちが天皇に献上する缶詰をつくる場面で、「石ころでも入れておけ。構うもんか」というところを読み上げて、溜飲でも下げるようにゲラゲラと笑い出した。後に多喜二が不敬罪で逮捕される根拠になった場面。それが19歳の小野沢にはカチンときた。突然怒鳴りだした。「やめろ。貴様ら売国奴だ、国賊だ!」

ミイラ取りがミイラに
小野沢は『蟹工船』を読んでいなかった。「左翼的な連中をやっつけてやる。相手がマルクス、レーニンをいうなら、おれもそれで勝負してやる」神田神保町の古本屋で『蟹工船』の載った「戦旗」のバックナンバーやブハーリンの『史的唯物論』などを買い込んで読みふけった。社会科学の本ははじめてなので、難解なところが多かった。それでも「被圧迫階級」などという言葉がでてくると、自分の家族や自分の身の上に起きたことと重なって納得した。頭がよくても女学校へゆけず専検を受けようと製本の内職、夜学でがんばった姉が16歳で肺病で死んだ。ちょうどその頃、画学校の廊下の壁に、プロレタリア美術研究所の講習生募集のポスターと紙芝居の画工募集の紙が貼り出されてあった。小野沢は紙芝居の画料や争議支援の交通費などで生活費をえながら、プロレタリア美術研究所の第一期夏季講習会の受講を終了。矢部友衛所長の要請で日本プロレタリア美術家同盟の一員になる。ミイラ取りがミイラになり、研究所の専従事務員として、プロレタリア美術運動の活動家となる。

六回も逮捕拷問
最初の弾圧の受難は一九三〇年の大晦日。新宿三越前で市電ストライキ支援のビラまき。特高につかまり四谷署で丸裸にされ電気コードで打ちのめされた。小野沢は戦前六回にわたり逮捕、拷問を受けた。やがて日本は戦争の真っ只なかに突入する。日本プロレタリア美術家同盟も解散(昭和9年)に追い込まれた。活動家も次々と検挙された。小野沢は一九三九(昭和14)年頃、中国に渡った。敗戦の年の11月に内戦中の解放区に入り、新中国建国後は『白毛女』という映画のタイトルや中華人民共和国建国記念式典の行われた天安門の舞台や看板の制作にもたずさわったという。

「赤旗」の政治マンガも
一九五九年に帰国、画家としての活動をつづけ、しんぶん『赤旗』に「さわ・わたる」のペンネームで政治マンガも描いた。一九九五年九月六日に肺がんのため死去。八十六歳だった。
(嶋圭氏同盟東京都足立支部の聞き書きの一部を要約したものです。文責・佐藤)

「不屈」 中央版 392号(2007年2月15日号)


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2007/2/18  2:36

投稿者:i

詩人 小野沢亘の生涯


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